富岡製糸場が世界遺産へ 女工哀史とは違う実態とは

明治の女性にとって、富岡製糸場はあこがれの勤め先だった! !

“富岡乙女”と呼ばれる工女さんたちは旧士族の娘などで、全国から優秀な女性が集まってきたといいます。

製糸場の工女さんと聞くと、『ああ野麦峠』のマイナーイメージがつきものですが、ここは国が威信をかけて作った国家的なプロジェクト。キャリアウーマンも育成されていたのです。

富岡製糸場で働く女性に、旧士族の娘が多かったわけ

富岡製糸場は巨額を投入した国家的大事業。とはいうものの、当初はフランス人など外国の技術者たちが飲むワインを見て、“生き血を吸われる”と恐ろしがられ工女が集まらなかったという話もあります。

そこで、現場の総責任者であり初代場長になった尾高惇忠という人が、自分の娘を工女第1号として入場させたといいます。

当時としては最先端の設備と労働環境を誇った富岡製糸場には、旧士族の娘をはじめ、全国から集まった優秀な娘が競って働いたようです。工女たちは単なる労働者ではなく、ここで学んだ技術を出身地で指導する役割をになっていて、高い教養や指導力なども必要とされました。

民間の製糸場では『ああ野麦峠』のような現実が

『ああ野麦峠』とは、山本茂実が1968年に発表したノンフィクション文学で、副題は「ある製糸工女哀史」といいます。10数年におよび飛騨・信州一円を取材し、数百人の女工や工場関係者からの聞き取りを行って書いた作品です。

映画化もされ、映画では出稼ぎ女工の悲惨さが強調されていますが、実際、明治から大正にかけての民間紡績会社では、粗末な食事と低賃金で過酷な長時間労働を強いていたようです。

富岡製糸場は能率給、頑張った女性がむくわれた!!その点、官営(国営)時代の富岡製糸場は先進的な職場であったのは確か。信州松代の士族の娘・和田(旧姓横田)英が書き残した回想録の『富岡日記』によって、快適な生活を想像することができます。

工女のランクは8段階あり、最高ランクの一等工女は高収入なばかりか、服装も特別待遇。キャリアアップを目差す女性も多かったでしょう。

富岡製糸場では身だしなみとして、お化粧も奨励されていました。フランス流のおしゃれ感覚も身につけていたかもしれません。

富岡日記の概要は、「安中市観光協会の情報サイト 絹物語」を見るといいでしょう。

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フジヤミユコ

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投稿者プロフィール

東京都出身のフリーライター・編集。温泉に入る、寿司を食べる、旅をする、この3つが生きる糧。旅行、観光、料理を中心とした雑誌、パンフレットなどの印刷物に携わっています。

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