世界遺産「姫路城」の城主はどんな人たちが務めた?

奈良の法隆寺とともに、1993年に日本初の世界文化遺産となった国宝「姫路城」。築城したとされる赤松貞範から、版籍奉還で知藩事となった播磨姫路藩最後の藩主、酒井忠邦まで約530年間13氏48代が城主を務めてきました。ここでは姫路城が歩んできた歴史を主要な出来事とともに振り返ってみたいと思います。

黒田重隆・職隆父子が中世城郭に拡張

まず紹介しなくてはいけないのは、姫路城を築城した人物でしょう。諸説ありますが、姫路城の始まりは南北朝時代の1346年に赤松貞範によって築城されたという説が有力です。赤松氏の後は、赤松氏の一族だった小寺氏が城代となり、その後何度か変遷を経て、小寺氏に仕えていた家臣の黒田重隆が城代となりました。

この黒田重隆という人物ですが、現在、放送中のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公、黒田官兵衛(くろだかんべえ)の祖父にあたります。黒田家は重隆から官兵衛まで3代に渡って姫路城の城代を務めたんですね。重隆とその息子の職隆は、それまで居館程度の規模であった姫路城を姫山の地形を生かした中世城郭に拡張したと考えられています。このため、姫路城の実質的な始まりは黒田重隆・職隆父子のときとする説もあります。

秀吉、城下町などを形成し、姫路を播磨の中心地として整備

官兵衛は西国統治の重要拠点として姫路城をとらえていたので、主君である羽柴秀吉に姫路城を本拠地にして居城するよう進言し、城主の地位を譲りますが、これが姫路城にとって1つのターニングポイントになったようです。というのも、秀吉はそれまでの姫路城に天守(3層と伝えられる)を建築したり、城郭を石垣でを囲むといった大改修を施して、姫山を中心とした近世城郭に改めました。城の南部には大規模な城下町を形成したほか、姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、城下町を通るよう整備し、姫路が播磨の中心となるように力を注いだのです。

 

版籍奉還を発案した播磨姫路藩最後の藩主

1600年に池田輝政が関ヶ原の戦いの功績により、播磨52万石(播磨一国支配)で入城すると、大改修を行って広大な城郭を築きました。池田氏の跡継ぎがあまりに幼少で、重要地を任せるには不安なことから、因幡鳥取に転封させられると、変わりに本多忠政が入城し、その後は奥平松平家、越前松平家、柳原家……と藩主家が7回も入れ替わりましたが、1749年に酒井氏が入城し、ようやく藩主家が安定しました。幕末期の鳥羽・伏見の戦いでは、9代藩主、酒井忠惇が老中として幕府側にくみしたため、姫路藩も朝敵とみなされ、姫路城は新政府軍に包囲されましたが、新政府軍に姫路城を明け渡したので、攻防戦は何とか回避されました。最後の藩主となった酒井忠邦が天皇に領地と領民を返還する「版籍奉還」を発案し、知藩事となったことで、播磨姫路藩の歴史も同時に幕を閉じたのでした。

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umechiha

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建設業界の専門紙で記者をしていました。当たり前のことですが、ネットの情報をそのまま記事化するのではなく、記者時代の取材力を活かし、電話取材などで裏付けをとった最新の情報で記事化するようにしています。
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