東大寺の歴史 簡単まとめ

天平文化の象徴とも言われている「東大寺」は、あの有名な奈良の大仏様(毘盧舎那仏)が安置されている世界最大の木造建築「大仏殿」や、見事な彫像群が並ぶ「法華堂」、伝統行事「お水取り」の舞台になっている「二月堂」などがあります。

さて、東大寺は誰が建立し、現在に至るまでどのような歴史を歩んできたのでしょうか? ここではそれらについて紹介したいと思います。

建立の背景に疫病や皇太子の死など不安材料

東大寺は奈良時代に聖武天皇が仏教の考えと、国を守るために建てたお寺として知られていますが、建立の背景には、地震や日食、天然痘の大流行や皇太子の死があったと考えられています。完成は752年で大仏開眼供養が盛大に行われました。

平重衡らによる「南都焼討」で焼失

奈良時代から平安時代にかけての東大寺は、華厳宗の中心となると同時に、総合的な仏教学の中心となりました。平安時代後期の保元・平治の乱後、平氏政権と東大寺をはじめとする南都の寺院勢力が対立したため、1181年に平清盛の命を受けた平重衡らが南都を焼き払う「南都焼討」が起こりました。これにより東大寺は、二月堂・法華堂・転害門・正倉院以外の主要な伽藍を焼失してしまったのです。

平氏に楯突いたことから、焼失した伽藍の再建を認められず、荘園・所領まで没収されてしまった東大寺でしたが、平氏が滅び、源頼朝による鎌倉幕府が樹立されると、東大寺の再建を説いた僧・重源の活躍もあり、頼朝に協力を要請し、1203年に再建事業が完成しました。

Tōdai-ji 東大寺

戦国時代に再び焼失、再建も空しく大仏様は雨ざらし

戦国時代に入ると、東大寺はまた焼失の危機に遭遇します。1567年に松永久秀の軍勢が大仏殿に陣を構えていた三好勢に夜討ちを仕掛けた結果、東大寺の建造物はことごとく焼失しました。

その後、山辺郡山田城城主・山田道安が中心となり、大仏殿などの修理が試みられましたが、江戸時代に入ってからも大仏様は木造銅版張りの仮の頭部を乗せた状態で、雨ざらしのままだったそうです。

このような状態に歯止めをかけたのは、1684年に僧・公慶が大仏修理のために始めた勧進活動でした。多額の寄進が集まったため、1686年には大仏の修理が始まり、1708年までの14年の年月をかけ再建が行われました。現在の大仏殿はこのときのもので、高さと奥行きに関しては天平時代と同じですが、間口は3分の2のほど縮小されています。

戦火逃れ2010年には平城遷都1300年

19世紀を迎えるころには、東大寺の老朽化は進み、明治時代には倒れないのが不思議なほど傷みがひどい状態になってしまいました。

このままでは日本人の精神が失われると痛感した思想家の岡倉天心が文化財保護を訴えたこともあり、「古社寺保存法」が制定され、貴重な仏像の保存や修復は国主導で行うことになりました。

幸運にも、東大寺は太平洋戦争中は空襲を免れることができ、1992年には世界文化遺産に登録され、2010年には平城遷都1300年を迎え、現在も世界中から多くの観光客が訪れています。

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umechiha

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投稿者プロフィール

建設業界の専門紙で記者をしていました。当たり前のことですが、ネットの情報をそのまま記事化するのではなく、記者時代の取材力を活かし、電話取材などで裏付けをとった最新の情報で記事化するようにしています。
建設・不動産分野はもちろんのこと、三姉妹の育児を通して感じたことを中心に、楽しくてコストパフォーマンスの高い情報を分かりやすく皆さまにお届けできたらと思っています♪

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